私たちが大切にするべきものは何だろう? 大切にするってどういうこと? 日々を綴る中で、片鱗に触れられたら幸せです。

山下清と祝島と平和と

今日は、信濃美術館の山下清展に行ってきました。

天才の放浪画家と言われた山下清の、緻密で魂の込められた作品は素晴らしかった!細部に神が宿るとはこのことか、と思いました。恥ずかしながら、彼が貼り絵をベースにしていたことを今回初めて知りました。限られた色紙の色を巧みに組み合わせ、日本の原風景を鮮やかにくみたてられた貼り絵たち。旅先で絵を描くことはほとんどなく、類稀な記憶力で風景を切り取っていったそうです。

特に大作「長岡の花火」は素晴らしかった。隣に「世界中の爆弾を花火に変えて打ち上げたら、世界から戦争がなくなるのにな」とコメントが添えてあり、切なくなりました。彼の作品には戦争を表すものもあり、純粋に平和を願う気持ちが伝わってきました。


その日の早朝、一人「祝の島」のDVDを観ました。命の海を守るために28年間、原発の反対運動を続けている島民の活動や暮らしが描かれた作品でした。原発問題が壊したものは地域の人間関係だった、という下りがショックだった。

中国電力の船に島民の想いがぶつけられる場面は、観ながら泣けてきました。
みなしまのベースである旧南島町は、40年の反対運動の末、芦浜原発誘致計画を止めた歴史を持っています。http://www.asyura2.com/12/genpatu29/msg/134.html
誇らしくもあり、悲しくもあり。隣の旧紀勢町は推進派が多く、両地域内で推進派と反対派の人間関係はズタズタに切り崩されたと聞きました。母が嫁いだ頃、地域では「お前ん家は推進か、反対か!」と怒鳴り込む人がいたとか。でも推進派だって海を汚したくて誘致しようとしているわけじゃない。過疎が進み、働く場がなくなると、やっぱり暮らしは立ち行かなくなります。

私たちが戦う先は何なのだろう。
よい社会を作って後世に残そうと努力してきたはずなのに、どうして足元が崩されているのだろう。

祝島の豊かな暮らしや山下清の美しい作品だけでは、人の心は、人の世は、平和になれないのでしょうか。