私たちが大切にするべきものは何だろう? 大切にするってどういうこと? 日々を綴る中で、片鱗に触れられたら幸せです。

レジ袋の嵐

買い物が終わって、憂鬱になった。

また不要なレジ袋をもらってしまったのだ。


「レジ袋はご入り用ですか」と聞いてくれたら、「結構です」と答えるのに、財布から一生懸命お金を出している間に、勝手に梱包されている。どんくさい私からすると、モタモタする私と対照的に店員のサッカーは早業だ。タイミングよく「袋結構です」といわなければ、きれいなビニールがガバッと開かれて、くしゃくしゃになる。
要は、袋は商品としての価値を失う。お役ごめんだ。
私の買ったものを受け止めるこの一時のためだけに。
今さら「結構です」と言っても、次のお客さんに手渡せるか怪しい。使い回してくれる店員さんは、まだいいと思う。○リアの店員さんは、「あっごめんなさい、結構です・・・」と申し訳なさげにいう私に、「え~今更言うか!!?」って感じでガンを付けてきた(と私が思っただけかもしれない)。そしてやりきれない緊張感に、「そうですよね・・・ありがとうございます、いただきます。」とレジ袋をわしづかみにして、足早にレジを去ったのは言うまでもない。

外注作業で、レジ袋にチラシをセットアップする仕事をしたことがある。正確に言うと、職業訓練のために生徒に仕事としてやらせていた。
この作業、単純なわりに難しい。100枚の袋の束を崩さないように、一枚ずつ袋を開けて、丸めたチラシを入れていく。チラシは予備校の夏期講習の広告。旗を持った女の子のイメージがいまだに忘れられない。一番難しいのは、チラシも袋もシワにならないように扱うことだった。手先の不器用な生徒が、「できました」とくしゃくしゃにシワのついた束を持ってくると、「これは大事な商品だから!」と叱ったものだった。
確かに生徒はそこで働く心構えを学ぶわけであるが、そうやって心の涙を流しながら作った商品は、消費者の一瞬のためにその商品価値を失う。私に至っては後悔の象徴にしかならないのだから、話にならない。

なんだかおかしな仕組みになっているぞ。

確実に社会は効率性を求めているはずなのに、非効率極まりない。
生徒をなんのために働かせているのだろう…と心がすすり泣きした。