私たちが大切にするべきものは何だろう? 大切にするってどういうこと? 日々を綴る中で、片鱗に触れられたら幸せです。

ひとり言\お勤めにまつわる不安。

やっぱりどうにもこうにもお勤めに出ていない身というのが、不安でたまらない日が重なる。


やりたい夢があるはずなのに、その道筋が見えなくて着実に進んでいるはずなのに、このままでよいのかと悩む。その迷いが随所に現れるから、周りの人にもたいそう迷惑をかけている。自分で決めたことなのだから、もっと堂々とすればいいのに、なかなかそうもいかない。

どうせ悩みと付き合うなら、自分の抱える不安の元凶なるものが一体なんなのかを考えてみた。働きに出ていないことの不安は大きく分けて次の二つ。

①社会からおいていかれるのではないかという焦り、疎外感。
②収入より支出が上回るため、いつか貯金が尽きてしまうという金銭的不安。

①については、働いている間は自分は役に立つ人間だし、社会に揉まれる中で成長していると感じられた。逆に言えば、働いていない今の自分は、役に立たない人間だし、停滞しているのである。こんなことは初めてだ。小学校からずっと決まった階段を登ってきて、成長しているはずだった。階段がはずされた瞬間、自分はこんなに弱い人間かと思った。

この不安から抜け出すには、役に立つ、成長することの定義を自分の中で組み立て直すことが必要。

②については、仕事=収入=幸せの方程式のなぞなぞだ。孤独死や将来の年金の議論、過労死の話題に触れる度、収入のために身を粉にして働くことに違和感を感じていた。一生懸命働くことが必ずしも幸せにつながるわけではなく、ややもすれば健康や家族を台無しにしてしまうこともあるということ。かつての未来予想図、いい大学、いい会社、いい収入、いいマイホーム、いい将来・・・という図式は、ものごころついたときにはバブル崩壊という私たち世代には、もう通用しない・・・はずなのだけど。

いざ田舎に帰ってみたら、お金以上の安心を感じる瞬間になかなか巡り会えない。食べ物を得るにも、移動するにもお金がかかる。余暇に使うお金は少なくなったけれど、比較でしかない。体に優しいの食べ物を手作りすれば逆に出費が増えることも。お金がなくてもやっていけるという安心は、大地から、山から、海から、食べ物を得たり、材料をいただいて身の回りのものを創ったりする実体験から感じられるもの。ただ仕事をやめただけで、生きるために金は必要、という考えから脱却することは難しい。

将来の安心や、生きる上での自立の
定義を組み立て直さなければならない。この価値観の組み換えができないから、経済のためには原発が必要、という謳い文句に騙されるのだ。


次回の宿題が決まった。
私にとって、成長するとは、社会で役に立つとは、生きる上での安心の源とは。

このなぞなぞに答えない限り、不安からは抜け出せないぞ。