私たちが大切にするべきものは何だろう? 大切にするってどういうこと? 日々を綴る中で、片鱗に触れられたら幸せです。

家族についての雑記

月に一回のパン教室に通うために、朝5時半に家を出ている。
何でわざわざそんな遠いところ、と思うかもしれないけれど、自分のこだわりだから仕方がない。
実家に戻っても出かけっぱなしの私は、母に「帰ってきても、ずっと家にいないね」と苦笑されながらレッスン日を迎えた。


5時前に起きてみると、父がいない。

ある中学校教員の早朝出勤の一幕。
しかも玄関の鍵が、開けっ放し。
オイオイ。




その時、私に降ってきた。

「私、お父さんと一緒だなぁ♪」

私たちは何かに突き動かされながら、生きている。
義務感からか、責任感からか、心から湧き出る喜びからかはわからないけれど。
いいとか、悪いとかではなく、
正しいとか、間違っているとかではなく、
日々、自分の選択の結果として動いている。



父は仕事一筋で、小さい頃から家にいた記憶があまりない。
たまの子守りの時は、学校の部活動に連れられ、体育館で遊んでた。本当に部活動に熱を注ぎきっていた。

母も教員をしながらも、見事に家庭との両立を図っていた。子どものため…家庭のため…頑張っていたから、頼りたい時にそばにいてくれない父が自分勝手に見えたらしい。
休みには、子ども二人を北海道や沖縄に旅行に連れて行ってくれた。そんな時、仕事を優先したい父はお留守番。母の姿から、行きたいところは連れて行ってもらうのではなく、自分で行くものだということを学んだ。

私の印象でしかないけれど、父は家族のこと大切に思っていないのかな、母がかわいそうだな、と感じていた。あんな家庭を顧みない人になりたくないと思っていた。


それが今、
自分が仕事を辞めて、
親のスネをかじって実家に居着き、
わざわざ名古屋まで足を伸ばして自分が行きたい教室に通い、
他にも突き動かされるがままに好き勝手にしていたら、
父と同じだということに気づいた。

始めは大義名分を掲げていた私も、心のままにしか動けないことを知り、とうとう大義名分を手放さるを得なくなった。
即ち「自分勝手」路線まっしぐらなのだった。

むしろ大義名分で言ったら、公の仕事に精を出す父の方が、立派なのかもしれない。

パン教室に向かう電車の中で、笑いが込み上げてくる。

私、父よりもずっと自分勝手だ。



だけどどこかでリフレインしている「お父さん、どうして早く仕事を切り上げて、家庭の時間や自分の体を大事にしないの」という母の声。
「私たちのこと、好きじゃないの?大事じゃないの?」という幼き頃の私の心の声。
本当は「もっとそばにいて。もっと楽しい時間を家族と一緒に過ごしたいよ。」って心の声の裏返しだったんだよね。



小さい頃の私へ、
お父さんは家族のこと、嫌いなわけじゃないんだよ。
だってケーキを買ってくれたり、スキーに連れて行ってくれたり、お父さんなりに家族に向き合ってくれた。
ただそれが、私たちの求める形やタイミングとずれていただけなの。
何かをしてもらう以上に、話を聞いてほしかったのよね。


お父さんは、体を壊しても、家族に嫌味言われても、突き動かされているんだよ。怒っているように見えたのは、疲れていただけなのね。今ならわかるの。

それが私にとっての親父の背中。好きなことに精を出す幸せな生き方を見せてくれた。



不器用な家族だけど、
すれ違いもたくさんあるけれど、
今ならわかるの、皆自分なりに一生懸命に生きてること。



今は、母が先日言った言葉が心に残っているよ。

「お母さんは名古屋から帰ってくる。あんたは大阪から帰ってくる。お父さんが駅まで二人を迎えに来てくれる。あぁ、いい家族だ。」

お互いの理想の家族像とは離れていたかもしれないけれど、私たちは、ちゃんと繋がっている。

そして、何かの形でまた会える。

恥ずかしいから、直接は言えないけどごめんね。

大好きだよ。