震災の記憶
震災から4年がたちました。
当時テレビから流れてきた映像は、この世のものとは思えないほどすさまじいものでした。
いのち、ふるさと、いきる。。。って何だろうと突き刺さりました。
戦後世代、ゆとり世代、いろいろいわれますが、物的な豊かさを当たり前のように受け取ってきた私です。
私の危機感は、肌身の感覚というより、世界各地からリアルタイムに流れるニュース映像から来ています。
少し前まで、貧困、紛争、自然災害、環境破壊・・・そういう画を見るたび、現地に行ってあるいは直接的に何かの役に立ちたいと思ってきました。自分なりに平和な世界を願って、その時その時できるボランティア活動にも携わりました。
震災の後は、友人のおかげで石巻でボランティアスタッフとして活動させてもらいました。当たり前ですが、現地に赴きながら、被災者の方と同じ気持ちになれるはずもなく、私という人間のレンズから見た現場がそこにあり、ただ、想像することしかできませんでした。
最近腑に落ちたことがあります。
私が見てきたものは全部、私に対するメッセージだったのだということ。
すでに起こった他地域の出来事にもやもやしながら、私は役に立てない自分をずっと否定し続けてきました。
私は世界に対して何もできない。
ちっぽけな私。
でも世界で役に立つ人間でありたい。
もっと勉強してもっと経験を積んだら、何か大きな貢献ができるのではないか。
ある意味傲慢です。
ずっと、実際に第一線で活躍されている方にあこがれていました。
国際関係を学び、資格を取って教育の現場に携わり、
ようやく足元を豊かにすることが平和への第一歩と地元に帰る選択をしました。
一人の人間が直接すべての出来事に対応することはできないのは自明のことですが、長らく私はそう思えなかった。
組織によらず、たった一人の足で立とうとしてみて、
初めて自分って本当にちっぽけだと絶望しました。
同時に腹をくくりました。
自分は自分としてできることをするしかないのだと。
その小さな自分が今やっていることが、目に見えなくてもものすごく価値のあることなのだと。
本当に、遠回りしました。
Being touchの河野先生が、何をやるかよりも、どんな自分がそれをするかが重要、と教えてくださいました。
世界の経済や環境が、ぐるりとつながっているならば、
今自分のいる場所から、どんな私が何をするのか、から世界平和につながっていくと。
いつだって、どこからだって、平和を創りだしていくことはできるはずだと信じて。
平和は笑顔、平和は安心、平和は楽しさ、平和はあなたと私が互いを尊重し、信じあうことから。
震災の記憶は、私に問いかけてくれます。
どんな暮らしやどんな働き方、生き方がしたいの?
今日あなたはどこへ行き、何を言い、どんな物をつくり、誰にどう届けるの?
何を受け取り、何を買うの?
その先に、どんな社会や世界を次の世代に残していきたいの?
だからすべてのメッセージに「大事なことを教えてくれてありがとう」と感謝して、
自分自身が満たされた気持ちで、
どんなことにも心を込めて向き合って、
私なりに表現して、精いっぱいできることをしよう。
どこにいても、どんな立場にあっても、
世界平和のために出来る事はたくさんあります。
だから、今いる場所で、被災された方々を想って祈りを捧げつつ、今日一日を丁寧に生きようと思います。
自分で言っておいて偉そう(笑)